ブックタイトル植木先生特別号

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概要

植木先生特別号

特別号令和4年3月発行Page 13手術を予定されるような患者さんが内科に多く入院していました。(2年目の私はそれが普通なのかと思っていましたが、その後に他の病院では通常ではないことがわかりました。)毎日、回診時には自らの手で創消毒、包交をして、高価であったPG製剤と抗生剤の連日点滴、インスリンを使用しての厳格な血糖コントロールを地道に継続し、結果として時間はかかっても大半の患者さんがアンプタなしか、もし施行するとしてもはるかに小さな範囲にとどまることが可能であることを臨床の現場で教えてもらいました。時には夜9時の消灯時間を過ぎることもあった回診につきあう看護師さんも大変そうで、『もう外科に任せたら』と看護師さんから言われた時に植木先生は『内科医が頑張ればまだこの足は残せるはずだ』と強い口調で反論されたのを今も覚えています。当時植木先生に治療をしていただいて下肢切断を回避できた患者さん達は、今も残せた自身の足で毎日地面を踏みしめて元気な生活をしていらっしゃると思います。回診終了後は、一緒に遅い夕食を食べて、週に一回はMRさんとともに夜11時から地元のボーリング場に連れて行かれ、午前3時まで深夜にボーリングを10ゲーム連続で行い、終了後3時半にファミレスで夜食をとり、4時に解散して私は寮に帰って就寝。植木先生は部長室のソファーで仮眠をとりそして翌日は9時から外来です。当時20代後半の私でさえ慣れるまできつい生活でしたが、既に50歳を超えていた植木先生の体がどれだけ頑強だったか、その年齢に今自分が近くなって本当に信じられない思いです。そのような公私の垣根をこえた生活の中で、糖尿病の患者さんとともに生きる人生を私は植木先生から学び、自然と糖尿病・内分泌・代謝内科に進路を変更することになりました。その後も一緒にスキーをしたり、相模湾に船釣りにいったり、学会でけんかをしたり、一緒に過ごさせていただいた様々な思い出は尽きません。患者さんと同じ目線で共に考えて治療にあたることは現在では当たり前のように言われていますが、あの当時から植木先生はそれを自然に実践しておられました。破天荒な側面もありましたが、20年前に運動療法の重要性をかかげて教育入院の中でそれを実践し、毎週月曜日の午後、ご自身が命名され開催していた『元気の出る糖尿病教室』では入院のみならず外来の患者さんが病棟に大勢来られて病棟のカンファレンス室に全員が座りきらない盛況ぶりでした。そして教育入院のレベルを押し上げた八王子医療センターは2007年に『オリコンエンタテイメント編患者さんが決めたいい病院関東版』において全1052病院中で第1位に選ばれました。初めてお会いしてからもう24年が経過し私も大学病院に長く在籍していますが、大学のみならずこの世界で植木先生以上に患者さんと向き合い、また患者さんに愛される先生に未だお会いしたことがありません。約10年前に東京医大を退官されたあとも勢力的なお仕事を多方面でなされ、まだまだ日々ご活躍中で、昨年の夏も一緒に研究会のお仕事をさせていただいていました。そのような中、まだ教えてもらいたいことが沢山あって、そしていつでも聞けると思い込んでいました。結果的に最後にお話しする機会となった昨年夏のウェブカンファレンスで、会終了後に秋の海釣りのお誘いがありご一緒するのを楽しみにしていましたが、10月に突然通勤中にお倒れになり、その後もお会いできないままお別れになってしまいました。その存在感は私にとってあまりに大きすぎて、それはたぶん交流のあった方どなたも同じだと思いますが、まさに余人をもって代え難いとは植木先生にこそ相応しい表現なのだと思います。いまだ悲しみはまだまだ私の胸中にありますが、植木彬夫先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。臨床糖尿病支援ネットワーク